ウナはキーズ・カレッジの舞踏会で、ハリー・レルトンと婚約した。おそらくこれは手相見への意趣返しだったと思う。なにしろ彼女がハリーを好きだとはとても思えなかったからだ。もっとも彼の方は彼女にかなり夢中になっていた。ウナにはおめでとうと言っておいた。「初めての恋人」ができたのは、喜ばしかった。ハリーはいつも金回りがよく、父親が自動車製造に乗り出したので、さらにもっとよくなるだろう。
彼がプロポーズをしたのは台所の階段でだったそうだ。ちょうどコックが夕食の用意をしていたそうだ。この小さなタマネギ君を、きっとウナはお手の物で料理してしまうことだろう。彼女によると、婚約をしてもまったく気分に変化はないという。フランス風の「狂喜乱舞」、天にも昇るここちがすると思っていたのに。おそらくハリーは、今までウナが鼻にもひっかけなかった、生活するにあたっての真面目な心配に目覚めることだろう。彼に財産がなかったとしたら、ご愁傷様と言うしかなかっただろう。確かに、ボート競技なんかしていても金にはならない。一方ウナの浪費癖は、ヴァンダービルト【訳註:アメリカの富豪】以外は誰でも破産してしまうだろう。そういうわけで、二人はおままごとのような新婚生活を始めることになるだろう。
僕は彼女が婚約したと聞いて喜んだ――そして同時に少々憂鬱でもあった。新しい生活に踏み出すというのは悲しいことでもあるし、いくらついていてもよく考えずにはいられない。お気に入りの寮の部屋ともお別れだ。次の学期には、乱暴な一年生がここを占めることになる。自慢の会社を閉めたり、クリケットのキャプテンを辞任したり、組合の会長を辞めたりするのと同じだ。窓の外のおなじみの風景を見つめる。庭のどこに何の植物が生えているかもわかるほど、おなじみの場所だ。塔や礼拝堂やツタで覆われた小塔の風景、かなたにはケンブリッジの尖塔やドームがパノラマのように広がっている。それと永遠のお別れなのだ――そう、誰もが考えるだけで心が痛み、思わず顔を背けたくなるのだ。
しかも僕の将来は漠然としたままだった。八ヶ月前に父が亡くなったけれども、遺産は債権者たちを満足させるにはほど遠い額しかなかった。母が亡くなってから三年しか経っていなかった。連れ合いを亡くした悲しみのせいで、不運が重なってしまったのだろう。それ以来すっかり仕事にも身が入らなくなってしまった。どれほど弱ってしまったか僕はまったく知らなかったが、貧しくなってしまったのは気の毒だった。それは母を失ったせいだというのは、当然だと思った。僕がケンブリッジ大学を卒業できるだけの遺産は、債権者たちも残しておいてくれていた。僕は二つ奨学金を受けていたのは事実だったが、僕自身の借金も膨らみ、最後の五月学期が終わったときにいは、どうやって返済したらいいか途方に暮れるほどだった。
言うまでもなく、何か仕事を即座に見つけなければいけなかった。父がまだ元気な頃の希望としては、自分の影響力があったある大きなパブリック・スクールの舎監にすることだった。卒業時の筆記試験で首席をとり、しかも体育会系の学生ならばそれがぴったりだった。しかしなぜ道徳哲学試験を選んでしまったのか、僕はよくわからない。おそらく父自身が論理学や哲学が好きだったからだろう。それに父はある大きな商社につとめる弁護士であり、英語やドイツ語を使う機会が多かったからだろう。この選択は、今になってみれば大失敗だった。修士号を取る望みはもうないし、「僕の論理学の実力は申し分ないので、経理係として雇ってくれませんか?」とどこかの会社の社長に頼んでも、つうじるわけがあるまい? これに関しては大学は何の役にも立たなかった。ケンブリッジ大学を僕同様に愛してくれている人には申し訳ないが、これは間違いない事実なのである。
そういうわけで、僕は金を稼ぐために今すぐ仕事を見つけなければいかなかった。真面目な評論雑誌にいくつか記事を寄稿し、好評だったことがある。マルクスの批評を隔週雑誌に掲載して、多くの友人ができた。また季刊雑誌に個人主義について長い論文を発表したり、新聞の文芸欄に書評を書いたりした。こういう仕事は金にならないのは、皆さんご存じの通りである。そこで秘書の仕事はどうだろうと考えて、タイムズ紙に求職広告を出してみることにした。それへの返事が、これからお話しする奇妙な物語のきっかけとなったのだ。
さて、僕が期待していたようなような段取りではなかった――長々とした手紙の交換や推薦状を送ったりするとばかり思っていた。僕を雇うような会社は、指導教官からその人となりを知りたがるとばかり信じ込んでいた。僕がその地位にふさわしいか質問されたり、能力はどうだとか、給料はいくらがいいのかとかという話し合いがあると思っていた。僕はフランス語やドイツ語ができて、父とたびたび海外に行っていたので、国会議員や外交官から問い合わせがあるだろうと考えていた。ところが喪中の黒枠がついた便せんに、たった二行書いてあるだけの手紙を受け取った。クラリッジ・ホテルから投函されていて、ジェハン・カヴァナー氏が僕をただちに雇いたいとだけ、書いてあった。まるでダイアモンド製のティーポットを膝の上に落とされたように、びっくり仰天した。ジェハン・カヴァナーといえば、カナダの大鉄道王であり、ロックフェラーと同じくらい有名な人物ではないか?
そのたった二行の手紙を、どうぞご覧いただきたい。
「ジェハン・カヴァナー氏はブルース・インガソル氏にご挨拶申し上げると共に、翌六月十五日より雇用したいとお伝えする」
推薦状など要求していないのは、ご覧の通りだ。給料の額も書いていない。どこで仕事をするのか、どういう仕事かということさえ不明だ。それでもどんなに疑い深い人間でも、彼の名前を出されたら納得するしかない。カナダとその鉄道網の将来に関する第一人者なのである。彼が所有するシカが住む森とヨットは、誰もが挿絵入り新聞で見たことがあるはずだ。ケベックの有名な政治家で銀行家だった彼の父親が、バクーで過激派に十ヶ月前に殺害されたとき、この事件は世界中を騒然とさせた。そしてこの男が僕に秘書になれと連絡をくれた。面接もなし、給料の交渉もなし、何の質問もなしでだ! もし彼の名前が知られていなかったり、評判が今ひとつだったりしたら、こんなことを言われても身構えてしまうだろう。しかし僕はイングランド銀行を信頼しているのと同じように、まるで中庭を横切って指導教官の部屋を訪れるのと同じくらい躊躇なく、彼のところに行く決心をした。
僕のケンブリッジ大学最後の朝は、こういう状態だったのである。メアリー伯母とウナはすでにセントピーターズの自宅に戻っていた。僕は大学副総長にうやうやしく敬礼をして、卒業生の仲間入りをした。あとは古いガウンをしまい、ベッドメイクをしてくれる係にたっぷりチップを渡し、家具の売却や処分の手はずをする。そして最後に残った最大の難物は、商店の付け払いをすることだった。どれもこれも頭が痛いが、特に最後の仕事には困った。僕は全財産をあわせても約百五十ポンドしかなかった。ところがケンブリッジには三百ポンド近い付けが残っているのだった。一ソヴリンを二倍にする技など持ち合わせていないので、商店主をどうにか説得しなくてはいけない。それを彼らは受け入れてくれるか、きっぱり拒絶するかのどちらかだろう。どちらにせよ、決して愉快な仕事ではないし、これほど恥ずかしく思ったことは今までになかった。そういうわけで僕はワレン&フラートン商店に入り、主人のどちらかにさしで話があると告げた。彼らには百ポンド近い借りがあった。僕が今支払えるのは四十ポンドだけで――残りは期限を延ばしてもらうつもりだった。
そしてフラートン氏本人がやってきた。事務所から出てきた空は、額に金縁眼鏡を上げて、にっこり微笑んでいた。これほど上機嫌な様子は見たことがなかった。だからこそさらに僕は居心地が悪くなった。
「休暇用の服がお入り用ですかな?」彼は言った。
僕はまったく別の要件だと告げた。
「しかも申し訳ない話題なのですが」僕は付け加えた。「お支払いの件なのですが、フラートンさん?」
「いや、お客様のお支払いはすでに済んでおります。お知らせはまだお手元に届いていませんか?」
まるで彼が僕の顔に札束をたたきつけたかのように、びっくり仰天した。目の前に立っている白髪の老紳士は、今まで聞いたこともないような途方もない話をしたのだ。もちろんそれは何かの間違いだ。そのせいで僕の立場はなおさら困難になった。
「支払ったですって?」僕は心の底から驚いた。「で、誰が払ったというのですか?」
「それは私は存じ上げません。共同経営者は、間の悪いことに昼食に出かけております。しかし小切手のことは覚えておりますし、きちんと換金できております。連絡が行っていないというのは、まことに申し訳ございません」
「それは間違いないのですか、フラートンさん?」
「絶対に間違いありません。そのような手違いは、うちの店ではありえませんので、インガソルさん」
彼はハンフリーズという主任を呼び、僕の勘定が精算されているかどうか確認をした。
この店員は籾手をしながら、問題の小切手は三日前に無事換金されたと答えた。その瞬間、この店員と店主両方が間違うことはありえないと思った。
「それでは」と言いながら、この場をどうにかごまかさなければいけないと思って、「おそらくうちの弁護士がやってくれたのでしょう。お騒がせしました。休暇用の服が必要になったら、フラートンさん、手紙で注文をします。それからもちろん、引っ越した後で何か連絡が必要になったら――」
彼は言葉を遮って、僕の洋服を仕立てるのはまことに楽しいことであり、皇帝さえも驚嘆するような素晴らしいフランネル生地が入荷しているとも言った。
しかしそんな言葉はまったく耳に入らなかった。僕は他の付けがある店を回ろうと、外に出た。ところがご想像の通り、どこに行ってもすでに支払いは済んでいた。マーケット・プレイスのジョナス煙草店、シドニー街のワスグッド靴店、世界一のラケットを作るタフネル、お嬢さん方を大喜びさせるケーキをつくるシンプキンズ、そしてワイズマン書店まで――足を運んでみると、付けは残らずきちんと支払い済みだった。驚いたどころではなかった。そんなことを予感させる出来事など、なにもなかった。僕は言葉を失っていた。生まれて初めてこんな謎に直面して、途方に暮れるばかりだった。
三時頃になって寮の自分の部屋に戻った。そして玄関番に辻馬車を呼ぶよう頼んだ。午後の汽車でロンドンに行き、ただちにカヴァナー氏に面会をする決意を固めた。直接面談をして、彼の申し出を受けるかどうか決めることにしたのだ。彼の奇矯な気前の良さに圧倒されつつも、かえって警戒心が高まり、疑いさえも抱くようになっていた。
どうしてこの男はここまで親切にしてくれるのだろう。そしてただの大学出たての新人にしかすぎないのに、何一つ質問もせずここまでひいきにしてくれるだけでなく、借金まで支払ってくれたのだろう? こうした疑問はきっとロンドンに行けば晴れるはずだ。しかし僕はまったく間違っていたのである。
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