最後にお話をしたのが、森下雨村のおこなった探偵小説に果たした役割です。雨村は、大正9年に創刊された博文館の『新青年』の初代編集長を務めました。そのとき、海外の探偵小説の紹介に努め、江戸川乱歩らに創作の舞台を提供し、さらに横溝正史、甲賀三郎、大下宇陀児、牧逸馬、夢野久作らなどの多くの作家を世の中に送り出し、探偵小説文壇に大きなエネルギーを注入したことで知られています。
雨村は、明治42年に早稲田大学英文科へ入学します。そこで長谷川天渓や馬場孤蝶を知り、また片上伸から英訳版のドストエフスキー「罪と罰」を読むことを命じられます。雨村は感銘を受け、ロシア文学を研究するようになります。馬場孤蝶が大正4年に衆議院選挙に立候補したとき、選挙資金を集めるために編んだ『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援――現代文集』(実業之世界社)には、クロポトキンの「農奴」を訳して寄稿したり、大正9年には孤蝶、佐藤緑葉との共訳で同じくクロポトキン『露西亜文学講話』『露西亜文学の理想と現実』を発行したりしていました。雨村は、このようにロシア文学を根っこに持ちながら、自分の文学生活を紡いでいきました。
雨村は、若者向け総合雑誌『新青年』を発行するとき、なにか目玉になる読み物を考えていました。彼は「冒険的な読物雑誌は時勢に後れているというところから出発したこと故、冒険小説などはなるべく避けたい、と云って文芸的な小説でもいけないというところから考えついたのが、探偵小説である」と述べました(「十年前の『新青年』」『新青年』昭和4年1月号)。この発言からわかるように、探偵小説を『新青年』の目玉にしようと、雨村の試行錯誤が始まりました。
大正11年の暮れには、江戸川乱歩から「二銭銅貨」「一枚の切符」の原稿が博文館の雨村のもとに送られてきました。これらは、同じ年の秋に、孤蝶が神戸図書館の講堂で探偵小説について講演したのを乱歩が聞いて、放っておいた原稿を再び書き直し始める気持ちになって、執筆したものです。最初、孤蝶に送ったものですが、孤蝶は忙しくて読む閑がありませんでした。乱歩は送り返してもらいました。そして改めて雨村に送りました。雨村も忙しく抽き出しに入れたままになっていましたが、乱歩から催促の手紙が来て、ようやく読むことになりました。
そうしたら、大変! 凄い作品でした。びっくりした雨村は、名古屋の小酒井不木に読んでもらおうと思い、原稿を送りました。不木も大絶賛。ここに素晴らしい日本の創作探偵小説が誕生したのです。
その「二銭銅貨」が華々しく『新青年』に掲載されたのは、大正12年4月増大号でした。雨村が孤蝶に探偵小説を教え、孤蝶はそれをテーマに神戸で講演し、それを聴いた乱歩が雨村に作品原稿を送る。森下雨村の蒔いた探偵小説という〈種〉は、孤蝶を介し、乱歩が創作探偵小説という〈花〉を咲かせて見事に戻ってきたのです。
このようなことを中心にお話をして、最後に雨村の提唱した「軽い文学(ライト・リテラチャー)」(昭和10年)が、現在のキャラクターを重視するライトノベルやアニメの物語のあり方を予言したものであったかもしれないという、壮大な展望を示して終わりにしました。高知の生んだ三人の作家、黒岩涙香、馬場孤蝶、森下雨村が、日本の探偵小説の礎を築いていったことがわかると思います。
ところで、文学館入り口左側のショップでは、ヒラヤマ探偵文庫を扱っていただいています。馬場孤蝶『悪の華』、森下雨村訳『謎の無線電信』、馬場孤蝶訳『林檎の種』、森下雨村『二重の影』の4冊になります。『悪の華』と『謎の無線電信』は、第二版です。
文学館の皆様、ありがとうございました。興味のある方は、読んでいただけるとうれしいです。
さて、10月8日の講演会は終わりましたが、「めざめる探偵たち」展は、まだまだ続きます。このブログをお読みになって、黒岩涙香、馬場孤蝶、森下雨村の探偵小説に興味を持たれた方は、ぜひ高知県立文学館へお越しください。よろしくお願いいたします。
翌日は、「森下雨村顕彰碑」を佐川町に見に行きました。きれいに整備されていて、趣きがありました。行くことができて、よかったです(終)。
なお、講演会の写真は平山雄一さんに撮っていただきました。
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