長田幹彦『蒼き死の腕環』(ヒラヤマ探偵文庫10)の初出は、『婦人世界』大正13年1月号から12月号まででした。この連載に関して、『婦人世界』編集部は、沈みがちな気持ちを光明方面に一転できるような期待をこめていたようです。
そのためか、関東大震災の悲惨な描写は影を潜めていて、地震の被害の様子を描いた場面は少なくなっています。神奈川県の横浜が舞台の小説ですが、主なものをあげてみましょう。
P9「李爺」の冒頭
・フェアモント・ホテルは小港町からもう本牧は出ようという坂道の左側にあって、僅か室数にして二十ばかりしかない小さなホテルであったが、あの大震災の後は、市中の名だたるホテルが皆焼失してしまったので、この頃でもかなり泊り客で混雑していた。もとは酒場ばかりが栄えていた怪しいホテルの一つであったので、今でも出入りしている客たちの中にはずいぶんいかがわしいのもいた。
P12「李爺」
・女はそこから二つ目の横丁まで来ると、ふっと立ち止まって今来た方を振り顧ったあとで、おずおず角から四、五軒めの煉瓦壁と煉瓦壁の間へ入っていった。それこそ鼻をつままれても分からないような暗闇なので、女は足探りになるべく音をたてないようにそっと入っていったが、とある大きな建物の前までくると、そこで歩みを止めて、思わず深い息を入れた。
そこは震災以前までは五階建ての堂々たる商館らしかったが、今ではもう焼け煉瓦が小山のように堆く盛り上がっているばかりで、昔の姿を偲ぶべくもなかった。
P49「毒牙」
・そうしているうちに、ふっとギブソン氏の声が、
「お、こりゃ光の工合が馬鹿に悪くなって来たな。おい、電気技師。カーボンを入れかえてくれ」と、英語で叫ぶ。
と、どこか遠くの方で、
「カーボンを取り換えても駄目ですよ。今、電力が急に弱くなったんですから」と、いう声が聞こえたが、それと同時に、今度はまたギブソン氏の声が、
「お、とうとう消えちまったなあ。これだから地震の後の東京は駄目だというんだ」と、口笛を鳴らして、「おい、監督。それでは三十分間休憩としよう。皆彼方へ行ってコーヒーでも飲んでいてくれ」と、いう。
そこいらでは、どたばた人の足音が乱れた。
というふうに、あまり大きな被害に触れられていません。触れていても、さらっとです。やはり、読者のことを考えてのことだったと思います。
同じ関東大震災のことを、背景にして描いた三上於菟吉『血闘』(ヒラヤマ探偵文庫24)では、冒頭から関東大震災の惨劇が描かれているのですから、大きな違いです。こちらは、『雄弁』大正13年11月号から大正14年9月号までの連載でした。震災から約一年経っているから、ということもあるかもしれません。震災を物語化できるような余裕が生まれていたのかもしれませんね。
同じ地震を舞台にした探偵小説でも、作者が異なると、このくらいの違いがあるということがわかります。
コメント